“に”と“を”の違い
孤独死とか、無縁社会とか言いますが、元々、人とは“孤独”な存在です。
根源的にそうです。生まれるときも死ぬときも。
双子は一緒に生まれてくるし、心中すれば一緒に死ねるじゃないかなんていう低レベルの揚げ足取りはなし。
それらはあくまで生死の時間が同じなだけ。独生・独死は人の本質。
それを言うなら、人に限らず生き物は皆そうだろ、というのも認識不足。
人以外の生物に“孤独”や“生死”という概念は理解できません。
というわけで、人は始まりと終わりがそうなんですから、その間も孤独なわけです。
“無縁”だと“孤独”なので(正しくは孤独を意識してしまうので)、人は“縁”を作ろうとします。
“縁”をこさえてそれに囲まれていれば、“孤独”を感じずに済むからです。
ただ、それは本質である“孤独”を意識から追い出しているだけで、本質である孤独が解消されたわけではありません。
というか、“孤独である”という本質は、いくら“縁”に囲まれても解消など出来ないんです。
なので、“縁”などというものは、人の本質たる“孤独”の前では無力です。
その意味で、人は、“孤独に生きる”のではなく、“孤独を生きる”わけです。
続きます。
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それを言うなら、人に限らず生き物は皆そうだろ、というのも認識不足。
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“縁”をこさえてそれに囲まれていれば、“孤独”を感じずに済むからです。
ただ、それは本質である“孤独”を意識から追い出しているだけで、本質である孤独が解消されたわけではありません。
というか、“孤独である”という本質は、いくら“縁”に囲まれても解消など出来ないんです。
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by inunoyu
| 2010-06-18 12:24